シベレスはレアル・マドリーよりも先にアトレティコのものでした。

この記事は約3分で読めます。

レアル・マドリーとサポーターたちは、日曜日にクラブにとって36度目となるリーガ優勝を盛大に祝いました。いつものように、マドリードの中心にある広場はメレンゲチームの祝賀会場となり、数千人もの人々が集いました。しかし、そうではなかった時期があったのです。実は、あの噴水はアトレティコ・マドリーのサポーターにとってのものでした。彼らがシベレス広場を祝勝の場として最初に選んだのです。

その歴史は1962年に始まります。当時、まだアトレティコ・マドリーの本拠地がバルキージョ通りにあった頃のことです。ロヒブランコスは、フィオレンティーナを下ろし、ジョーンズ、メンドンサ、ペイロのゴールでカップウィナーズカップ (現ヨーロッパ・カンファレンスリーグの前身) のチャンピオンに輝きました。サポーターたちは、クラブ史上初のヨーロッパタイトルを祝うため、本拠地からシベレス広場へと向かい、盛大な祝賀会を催しました。なんと、噴水での水浴びまであったそうです。

当時、優勝を祝って街に繰り出す人々は多くありませんでしたが、首都にある象徴的な場所でそれを最初に実行したのは、アトレティコ・マドリーのサポーターたちでした。また、クラブが数多くの栄光を収めた1970年代にも同様の光景が見られました。

しかし、1980年代に入ると状況は変わり始めます。アトレティコ・マドリーにとって厳しい時代が訪れ、一方、レアル・マドリーは「キンタ・デル・ブイトレ」と呼ばれる黄金期を迎え、スペインサッカーを席巻し始めました。そして、この「キンタ・デル・ブイトレ」の立役者の一人であるエミリオ・ブトラゲーニョこそが、レアル・マドリーがシベレス広場を制覇するきっかけを作ったのです。1986年メキシコワールドカップ、スペイン代表はデンマークを5対1で破り、ブトラゲーニョは4得点を挙げる大活躍を見せました。この勝利を祝うため、多くのファンがシベレス広場に集結し、ブトラゲーニョを中心に盛り上がりました。そして、この熱狂がレアル・マドリーのサポーターたちに伝播し、その後チームが5連覇を達成するたびに、シベレス広場がレアル・マドリーの優勝祝賀会場として定着していくのです。

1991年、全てが変わり始めました。
アトレティコは、コパ・デル・レイ決勝で、なんとマドリーの本拠地のベルナベウでマジョルカと対戦しました。優勝トロフィーを掲げることを夢見ていたものの、かつて自分たちの「女神」であったシベレス広場に対して、ロヒブランコスのサポーターたちは警戒感を抱いていました。優勝した場合、5年間もの間、白い方のサポーターたちに占拠されていた「汚染された」シベレス広場ではなく、ネプチューノ広場での水浴びを皮肉交じりにメディアに宣言する者もいました。

アトレティコは勝利を収めました! 何百人ものサポーターたちがカステラーナ通りを下っていき、シベレス広場を通り過ぎました。 そして、シベレス広場からさらに500メートルほど先にあるカノバス・デル・カスティーリョ広場へと向かいました。 そこには、長年にわたって「隣人」との祝賀を見てきた海の神が待っていました。

翌年もアトレティコはコパ・デル・レイを制しました。舞台はやはり本拠地のベルナベウでしたが、今回は宿敵レアル・マドリーとの対戦でした。サポーターたちは既にネプチューノ広場での祝勝を想定しており、優勝から4年後には、アトレティコ所属選手たちも初めてこの広場を訪れて、見事な“ドブレーテ(リーグ優勝とカップ戦優勝)”を祝しました。

選手たちは噴水で水浴びをして勝利を祝いましたが、その後安全上の理由からこの行為は完全に禁止されました。代わりに、優勝チームのキャプテンが像に王冠を戴けるように通路が設置されました。アトレティコの場合はネプチューノ像、レアル・マドリーの場合はシベレス像です。シベレス広場はもともとロヒブランコスのサポーターたちの集結場所でしたが、レアル・マドリーのサポーターたちに真似をされたと感じた後、彼らはそこでのタイトルの祝賀を続けることを拒否しました。

コメント