アスレティック対アトレティコ、過去の名勝負

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1921年5月8日:スペイン国王杯決勝 アスレティック・クラブ 4-1 クラブ・アトレティコ・マドリー
すでにスペイン国王杯を7回制していたアスレティックは、サン・マメスで唯一行われた同大会の決勝で初めてアトレティコと対戦。アトレティコは1900年初頭にバスク出身の学生たちによって創設されたクラブだったため、「兄弟たちの」決勝と呼ばれた。現在は、この翌年にチフスで亡くなった地元の伝説的選手ラファエル・“ピチチ”・モレノがアスレティックで最後に出場した試合として有名になっている。

試合はアスレティックのホセ・マリア・ラカの先制点をアトレティコのMFラモン・“モンチン”・トリアナが帳消しにしたものの、後半にアセドがPKを沈めてアスレティックが再びリードを奪う。その後、アセドとラカがそろってこの日の2点目を挙げ、1万5000人のホームファンを喜ばせた。

1930年3月23日:リーガ アトレティコ 3-4 アスレティック
スペイン・リーガが始まって2年目、アトレティコは旧エスタディオ・メトロポリターノで行われた最終節の1つ前の試合で再び苦戦を強いられた。最終節での残留争いを避けるには勝利が必須だったアトレティコは、シリアコ・クエスタの2得点とホセ・ルイス・コスタの1点で前半のうちに3-1とリードする。

しかしホームチームのファンが「ライオン(アスレティックの愛称)をなだめろ」と歌っているのを聞いて奮起したアスレティックの主将フアン・ガリスリエタが、すでにリーグ優勝を決めていたチームに反撃を指示。ギジェルモ・ゴロスティサの2点とホセ・イララゴリの1点で逆転する。ガリスリエタは試合終了後、「ライオンをなだめろだって?」とつぶやきながら地元記者たちの前を通り過ぎていった。アトレティコは結局この年、降格している。

1956年6月24日:スペイン国王杯決勝 アスレティック 2-1 アトレティコ
アスレティックが緊迫の立ち上がりとなった決勝を制し、スペインのクラブサッカー最古の大会で通算20回目の優勝を果たした。準決勝でレアル・マドリーCFを退けていたアスレティックだが、決勝では前半半ばにMFフランシスコ・モリーナにゴールを許し、アトレティコに先手を取られる。しかしクラブのベテランFWホセ・アルテチェがハーフタイム前に同点とすると、ホセ・マリア・マグレゴが70分に勝ち越しゴールをマーク。アスレティックは優勝杯を持った主将アグスティン・ガインサを肩に担いで、サンチャゴ・ベルナベウのピッチを回った。

1985年6月30日:スペイン国王杯決勝 アトレティコ 2-1 アスレティック
前年、リーガとスペイン国王杯の2冠を達成していたアスレティックは、2年連続でサンチャゴ・ベルナベウで行われた国王杯決勝に進出。しかしメキシコ代表ウーゴ・サンチェスの2点に屈した。このあとレアル・マドリーに移籍することになるサンチェスは、イスマエル・ウルトゥビのハンドで得たPKを沈めて25分に先制ゴールを奪うと、後半にはペナルティーエリア端から見事な2点目を決める。残り15分にはフリオ・サリナスが何とか1点を返したアスレティックだったが、ルイス・アラゴネス監督率いるアトレティコの優勝を阻止することはできなかった。

1992年2月5日:スペイン国王杯準々決勝第1戦 アスレティック 0-3 アトレティコ
このシーズンは、決勝で宿敵レアル・マドリーを2-0と破って優勝した年としてアトレティコのファンには記憶されている。しかしそこまでの過程で、アスレティックにも準々決勝で見事な勝利を収めた。敵地サン・マメスでの第1戦、アトレティコはポルトガル人FWパウロ・フットレの大活躍で大きなアドバンテージを手にすることに。フットレはまずファウルをもらってマノロのPKでの先制点をお膳立てすると、スピードとパワーと一分の隙もないボールコントロールで自ら2点目を追加。さらにペナルティーアークの内側から左足で決めた一撃で勝負を完全に決める3点目も奪った。フットレはこの年、決勝でもゴールを決めている。

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