ロナウドはトーレスよりも上か?

この記事は約7分で読めます。

■フェランド監督の泣き言

「サッカーは不公平だ」とアトレティコ監督セサール・フェランドは嘆いた。レアルのルシェンブルゴ監督は「結果には満足だが、プレーには満足していない」と気を引き締めた。「3-6で終わってもおかしくなかった」といつもながら率直だったのは救世主カシージャスだ。

 サッカーは不公平である。
 前半はわずか34%、全試合を通じても40%しかボールを支配できず、3回しかシュートを撃てなかったチームが、3-0で大勝してしまう。
「違いは400億の予算の差だ。この金でクオリティとゴールが買える」(フェランド監督)。
 アトレティコの年間予算は公表されないので比較はできないが、破産の危機に陥ったチームと銀河系軍団の間には、数百億円の差は確実にあるだろう。この金で「クオリティ」=たとえばジダン、と「ゴール」=たとえばロナウド、が買える。リーグ全体を見回すと、貧者(失礼!)ヘタフェと富豪レアル・マドリーの間には、20倍近くの予算の差がある。強豪バレンシアやデポルティボの予算ですら、レアル・マドリーの半分にも満たないのだ。

 クオリティとゴールが金で買えるのであれば、そしてそれが勝敗を決めてしまうのなら、これほど不公平な話はない。
 しかし、サッカーにも金で買えないものがある。
 それが戦略・戦術であり、プロ意識であり、モチベーションであり、フィジカルコンディションである。これらを整備し鍛えることで、貧者は富豪と張り合え、ついには負かすことさえある。
 まあ、そんな現実は誰もが認識していることで、今さら「不公平だ!」と嘆いても始まらない。フェランドもよっぽど悔しかったと見える。
 泣き言と金の話はここで終わり。

■F・トーレスとロナウドの差は

 ここからは、アトレティコとレアル・マドリーの「クオリティ」と「ゴール」の差について書こう。それはフェルナンド・トーレスとロナウドの差、と言い換えてもいい。10回シュートを打ち(そのうち一度は空のゴール)1点も挙げられなかったトーレスと、2回のシュートで2得点のロナウドの差だ。

 私は以前『クライフェルトにはなぜ決定力が無いのか?』(2003年9月)という文章で、定義なく使われる“決定力”の正体を探ろうとしたことがある。その中で、決定力に必要なのは、(1)テクニック、(2)ゴール感覚=集中力、(3)傲慢さである、と書いた。

 ロナウドとトーレスには明らかなテクニックの差がある。
 どこから来るか分からないセンタリングやラストパスに、頭と足をボールにぶつけ、ゴールキーパーやディフェンダーの届かないところへたたき込む――この技術の精度において、ロナウドはトーレスをはるかに上回っている。

 例えば、空のゴールに決められなかったシーン。トーレスはバウンドしたボールをボレーしようとしたが、抑えが効かず、上に浮かしてしまった。軸足がぶれて、振り下ろす足を十分にかぶせることができかなかったことによるミスだ。プロでもよく見られるミスだが、あそこは決めてほしかった。
 一方のロナウドは1点目、ジダンの空振り(もし当たっていれば得点になったかどうか。レアル・マドリーには運もあった)が絶好のスルーとなり、これを落ち着いて、ゴール左上の隅にたたき込んだ。2点目は、スペースへのパスを受け、ディフェンダーに追いつかれる前に、キーパーの股の間を鋭く抜いた。
 いずれもジャストミートしている。当たり損ね、との差は、純粋に技術の差だ。

■過剰なやる気のトーレス、走らないロナウド

 2つ目の「ゴール感覚=集中力」には、ちょっと面白い違いがある。
 『クライフェルトにはなぜ決定力が無いのか?』の中で、私はゴール感覚のある選手としてラウルを挙げた。少し引用してみる。

 ディフェンダーやキーパーの体に当たったボールやゴールマウスに跳ね返ったボール、クリアミスになったボールが転がった先には必ず彼がいる。なぜか? 超能力で予測している訳ではもちろん無い。単純な話だ。それはラウルが忠実にボールを追いゴール前に詰めているからだ。ラウルは決して走り惜しみをしない。消化試合だろうが、大量リードしていようが、彼は90分間、手を抜かないで走り続け、ゴールを狙い続ける(引用ここまで)。

 トーレスの集中力は、ラウルのそれの延長線上にある。少年トーレスを育てた監督たちは、一様に「冷静」、「大人びた」、「執拗」、「めげない」と表現する。レアル・マドリーとの試合でもあれだけ執拗にディフェスにプレッシャーをかけ、あれだけひたむきに走り続けられるのは、ハートが強い証拠だ。
 ただ過剰なやる気がプレーのスピードを上げ過ぎ、シュートの精度を落としている。トップスピードで縦に切り込んだところで、ワンクッション置いてコースを狙っていれば……と思わせるシーンが何度かあった。

 これに対して、ロナウドの集中力は“特異”と形容するしかない。
 ご存じのように、ロナウドは走らない、守らない。他の銀河系の戦士たちが防戦に大わらわになっているのを、手伝いもせず漠然と眺めていたりする。その姿が伝えるメッセージは「弛緩」であり、「無関心」だ。
 ところが、チャンスボールが来たとたんに、筋肉にも精神にも爆発的なターボがかかる。「弛緩」⇒「躍動」へ、「無関心」⇒「緊張」への変化はあまりにも劇的であり、ここでゼロコンマ数秒の差をつけ、ディフェンダーは置き去りにされてしまう。爆発力とは、筋肉の強さと神経(情報伝達と反応の速度)の速さがミックスした能力であり、ロナウドはこの点ずば抜けている。いや、正確には、後を追う者が見当たらないから、“孤高の王者”と呼ぶべきか。
 90分間の大半をのんびり過ごし、数秒間だけに決定的な仕事をする能力――これも集中力の賜物だが、ラウルやトーレスらのそれとは質がまるで異なっている。

■FWの評価とは

 最後の「傲慢さ」は互角だろうか。
「誰を責めるでもないが、フォワードにはボールが必要だ」――バルセロナ戦の大敗の後、シュートすら打てなかったロナウドはこう言い放った。要は、“ボールを俺に回せよ。決めてやるから”、そう言っているのだ。まだ若造のトーレスにはこうした発言は無いが、グロンケアへのチャンスボールを横取りしてシュートしたシーンに見るように強引さでは負けていない。

 さて、これがトーレスとロナウドの「クオリティ」の差である。年俸だって互いのクオリティにふさわしいほど差が開いているに違いない。フェランド監督の歯ぎしりが聞こえてきそうだ。

“つまり、フォワードとしては、トーレスよりロナウドが上だ”――と言い切って、果たしていいのか?
 実は私は迷っている。

 その疑問は、冒頭で「不公平」と書いた、ボール支配率60%対40%に象徴される、アトレティコとレアル・マドリーのプレー内容の差に根ざしている。
 アトレティコは、決定力以外の部分:ゴールチャンス、コーナーキック、シュートの数、守備ブロックの機能ぶり、プレスの精度、攻守の切り替えの速さ、モチベーション、フィジカルコンディションでレアル・マドリーを圧倒した。足りなかったのはゴール前のクオリティだけだった(その差が容易に埋められない巨大な溝ではあることは、すでに述べた)。“今季最高の内容”と評したメディアもあるくらいだ。

 その原動力となったのがトーレスだった。
 彼の懸命なプレスが仲間のインターセプトを容易にし、イーブンボールへのがむしゃらな突進が相手のミスを誘い、サルバとのコンビネーションプレーが前線でのボールキープに貢献し、サイドに流れてスペースを創ったことが、グロンケア、イバガサの中央突破を可能にした。
 ロナウドは、以上すべてのプレーでトーレスを下回った、いや、彼は単にそれらをしなかった。
 前半20分過ぎから後半35分過ぎまでの時間帯、防戦一方のチームをしり目に彼はいつものように動かずエネルギーを貯めていた。ゴールを決めなくてもいい。下がって守れとも言わない。だが、サイドに流れるか、ポジションを少し下げていれば、味方が苦しまぎれに蹴り込むロングボールをキープする、反則を誘ってプレーを切るなどの手助けはできたはずだ。
 そうした、得点以外にフォワードに要求される仕事を放棄したロナウドを、“トーレスよりも上”と言い切っていいのか? 得点では貢献できなかったが、それ以外のすべての部分でチームに貢献したトーレスは、ゴールでしか貢献しなかったロナウドよりも、“フォワードとして劣っている”のか?

“フォワードは点を取ってなんぼ”と言われる。私自身もしばしば使う表現だ。
 この言葉のとおりなら、文句なくトーレスはフォワード失格であり、ロナウドはフォワード中のフォワードという評価になる。
 が、それでいいのか?

 レアル・マドリーとアトレティコ・デ・マドリーの「クオリティ」の差、プレーの内容と結果の差、トーレスとロナウドの「決定力」の差、攻守への貢献度の差など、さまざまな側面が観察でき、同時に考えさせられる、収穫の多いマドリーダービーだった。

コメント