常に戦う血 ~ヘスス・ヒル~

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1987年、・ヒルのアトレティコ・デ・マドリー会長就任は衝撃的であった。
アトレティコを揺さぶっただけでなく、スペインサッカーにも大きな衝撃を与えた。
ヒルは会長就任後、前会長のビセンテ・カルデロン派とみられる選手、フロント陣を追放した。
それまでチームの主力といわれた選手の多くがアトレティコを去って行ったのだ。
ヒルはさらにRFEF(スペインサッカー協会)にも個人的挑戦状を叩きつけた…

自分の行為がすべて正しいと思う男

・ヒルの会長就任に伴い、アトレティコはヒル家ファミリー統治となる。
息子のミゲル・アンヘル・ヒル・マリンと、大親友でありスペイン映画で1,2を争うプロデューサー、エンリケ・セレソをGMのポジションに据え、独裁体制を敷いた。
就任早々、12人の選手の首を切ったが、これもカルデロン色を一掃するため。カルデロン時代に下部組織から育った選手のほとんどがチームを追われたのだ。
そして、ほとんどが新会長との口論の末出て行くという状況で、契約破棄に伴う賠償金が一切払われないものであった。
数年後、追放された選手たちは裁判所に調停を申し入れ、分割で債務を支払ってもらうことになったが、ヒルの傲慢なやり方は協会内でも大きな問題となった。
サッカー界では新顔のヒルに限度という言葉は存在しなかった。
ヒルはしたいようにし、生きたいように生きた。彼は自分の行為をすべて正しいと思っていた。 クラブ内で彼にブレーキをかけるものは誰もいなかった。
彼が会長に就任してからの2,3年は問題が絶えなかった。
チーム経営手段としてヒルが最初に行ったことはソシオの年会費を値上げすることであった。
例えば、1番安いシーズン席(ゴール裏側)がカルデロン時代は約300ドルだったのが、会長がヒルに代わった途端約600ドルになったのだ。
値上げに対し、ファンは猛烈に反対した。
しかし、ヒルはファンに耳を貸さなかった。
ヒルはファンにこう言ったのだ。「金を払えないものは家にこもっていればいいのだ」
次にヒルが行った改革は強引な選手補強であった。
彼は周囲の意見を聞かず、独自に選手探しを始めたのである。
そして、次から次へとビックネームを獲得していった。
無謀とも思えるやり方で彼は”投資”した。
当時、市場でもっとも人気のあったパウロ・フットレを獲得。
そして、フットレの後を追うように12人がマドリードにやってきた。
シーズンが始まると、活火山ヒルはたちまちに爆発する。
2連敗したというだけで、(1978年ワールドカップ優勝監督:アルゼンチン)を解任している。
ヒルが会長に就任した1987年からこれまで、アトレティコには実に24人の監督が誕生している。
その中には、「スタメンの決定まで口を出す」ことに耐えられず辞任していった監督もいる。
レアル・マドリー、バルセロナなど、経済力でもチーム力でも勝るチームは血相を変えて動き回るヒルを冷ややかな目で見ていた。「所詮二流のチームだよ」
それに対し、ヒルはサッカー協会への攻撃を開始する。
新聞の見出しに「サッカー協会は泥棒だ」の文字が躍った。
協会はレフリーを操作してバルサやレアルが勝つように、そしてアトレティコの勝ちを”盗む”よう仕向けている。という内容であった。
ヒルの協会批判はこれで終わったわけではない。
その都度、協会は名誉毀損で裁判所に訴えているが、その件数は35に至っている。

限りなく熱く、戦う血を持つ男

爆発を繰り返しながらもヒルは徐々にファンの心をつかんでいった。
彼の煽動的な行動と巧みな弁論術がアトレティコファンを洗脳していったのだ。
ヒルはもはや単なる独裁者ではなかった。チームの救世主として認知されていたのだ。
ヒルが会長に就任して以来、チームは低迷を続けた。シーズン中の監督解任は当たり前、シーズン後には少なくとも10人以上の選手が放出されていった。
中でも92-93シーズンと94-95シーズンは辛うじて1部に残れたものの、最悪のシーズンだった。
成績の悪さも然る事ながら、ヒルの周辺に好ましくない噂がたったのはこの時期である。
2部転落を免れるためレフリーを買収したという噂である。
名門アトレティコ・デ・マドリーにとって最悪の時期ではあったが、Copa del Reyを1990年と1992年に何とか獲得。辛うじて一矢を報いているのもこの頃である。
92-93,94-95の惨めな成績にさすがのヒルも考えるところがあった。
マルベーリャ市議会の仕事に追われていたこともあり、チームの実務を息子のミゲル・アンヘルに預けたのだ。
ヒルは足をアクセル板から離した。息子の助言があったのか、少なくとも公共の場では言動はおとなしくなった。
そして、95-96シーズン、アトレティコは監督にラドミール・アンティッチを迎え、チーム立てなおしを図りこれに成功する。
そして、・ヒルは会長就任8年目にして、夢にまで見たリーグ優勝の美酒を味わうのである。
この年、アトレティコにはもう一つ喜びがあった。
Copa del Reyの決勝で憎きバルサを1-0で下し優勝しているのである。
2冠を市民とともに盛大に祝うため、マドリー市議会から特別許可を得た。
優勝パレードをするために交通を遮断する許可である。
アンティッチ監督と選手は色とりどりの馬車からファンに手を振った。
道路はアトレティコのロヒブランコ(赤白)で埋め尽くされ、・スタジアムは花火やレーザー光線、さらに音楽の演奏で盛り上がった。
ヒルの扇動的な演説は有名である。とくに”宗教”の文字を使うことは彼の得意とするところだ。
「アトレティコの一員でいること、アトレティコを信ずる気持ち、これはもはや宗教である」彼の好きなフレーズである。
もはや、ファンは疑う気持ちを持たなかった。
「ヒルこそアトレティコのメシア(救世主)だ」と。
選手もヒル教の信者になっていた。「アトレティコでプレーすることは何か特別なことです」と多くの選手が口にした。ここにヒルと選手とファンが完全に合体したのである。
選手のヒル崇拝は、のちにヒルが投獄されたとき大きな高まりを見せた。
選手たちが逮捕への抗議文を作成、それをトニ、、サンティの3人が報道陣を前にして読み上げるという行為にヒル崇拝の気持ちが十分溢れていた。
抗議文には、逮捕が不当であること、選手たちは全員がヒルを支持していること、そして一刻も早い釈放への願いが綴られていた。
アトレティコのチーム事務所の職員も選手たちと行動を共にした。
「ヒルは無実!」と連呼した。
そして同じ日息子のミゲル・アンヘルはビセンテ・カルデロンで行われるエストレマドゥーラ戦を入場無料にすることを決めた。
「スタジアムを埋めて、みんなでヒル会長の逮捕に抗議しよう」とファンに呼びかけた。試合当日、スタジアムはファンで埋まった。至る所に”釈放”と書かれたプラカードが見られた。
試合開始直前にはスタジアムのスクリーンにヒル会長の顔が映し出され、場内アナウンスが”不当逮捕”と”釈放”をファンに訴えたのだ。
ヒルはマルベーリャの独房のTVでこの模様を眺めていたという。
一方、マルベーリャの町では3000人の市民がヒル逮捕に対するデモを繰り広げた。
裁判所の決定に市民サイドからもプレッシャーをかけようというものである。
保釈金を積んで釈放されたヒルは現在のところまだスタジアムには顔を出していない。
健康上の問題でゲームを見て興奮しては体に障るというのが医者の見解である。
一方で強く愛され、一方で強く憎まれるヘスス・ヒル。
彼の血は限りなく熱い。彼自身の言葉を借りれば「常に戦う血」だそうだ。

職務停止命令

1999年、ヘスス・ヒルにマフィア関連疑惑が上がった。
汚職担当検察当局はマルベージャ裁判書のラミレス判事の家族とヘスス・ヒルがイタリアマフィアのマネーロンダリングに係っている、という告発があったが、検察はこの事実を立証する書類を法司法委員会に提出し、司法規律委員会が開かれた。
、ラミレス判事の父親はともにマフィアとの関係をマスコミの前で全面的に否定している。

2000年始めには、裁判所からヘスス・ヒル会長に職務停止命令が出された。
会長の背任容疑という前代未聞の事態に見まわれたアトレティコ。
一時は経営を裁判所から派遣された管財人にルビ氏に管理されていたが、2000年4月、スペイン司法裁判所のガルシア・カステジョン裁判官がアトレティコの会長職を解かれていたヘスス・ヒル・イ・ヒルに復帰許可を出した。
このため臨時に会長職を務めたマルエル・ルイス・ルビ・ブラン氏はクラブ事務所から引き上げ、裁判所から復帰に関する正式な書類を手にした段階でアトレティコ・デ・マドリーの会長には再びヘスス・ヒルが就任することになった。
が…
クラブはリーガ19位という成績に終わり、2部に落ちることになった。

2部でのシーズン(2000-2001)が始まるとアトレティコは開幕5試合で勝ち点4しか上げられず、シーズンが始まってちょうど1ヶ月後、監督のフェルナンド・ザンブラーノ氏を開幕僅か5試合目で解任し、前シーズン セビージャの指揮を執っていたマルコス・アロンソ氏を監督として迎えた。
ヒルが1987年に会長に就任して以来23人目の解任となった。

それから1ヶ月後にはテクニカル・ディレクター、・ルイスを解任。
新スポーティング・ディレクターにパウロ・フットレを就任させた。
また、その直後に行われた試合で敗北を喫し、22チーム中19位と低迷し1部復帰も危ぶまれている中アトレティコのサポーターはヘスス・ヒルに辞任を求めた。

2001年2月には会計監査裁判所検事局によって告訴された。
同局では国家総検事局長宛てに同市長が犯したとされる犯罪についての報告書を送り、この事案についての担当が汚職対策検察局になるかマラガ検察局となるのかの判断をあおいでいる。
報告書の中で、マルベーリャ市長であるヒルが偽の負債、存在しない債権者を捏造したことや3億8,200万ペセタにのぼる議員に対する裏づけのない支払い、秘密の銀行口座の存在、会計上や土地整備計画における多数の不正などが指摘されている。
ヒルは市保有の土地を市場価格よりも格安で業者に売却、業者とは市の専門家の意見書を無視することなどの協定を結んでいたとされ、マルベージャ市に与えた経済的損害は、13億ペセタにのぼると推定されている。
91年から99年までの市の使途不明金は620億ペセタ、そのうちの半分はヒルによって作られた市の関連会社と称するトンネル会社31社にばらまかれている。
ヒルはすでに別件によりマラガ地方管区裁判所より汚職や不正売買などの罪状で28年間の資格剥奪処分、罰金刑を言い渡されており、さらには全国管区裁判所では”アトレティコ事件”が審理されている状態である。

2000-2001シーズンの終盤、1部返り咲きかそれとも2部残留かという厳しい状況にある中、次季監督にルイス・アラゴネスを迎えることに。
ルイス・アラゴネスにとってアトレティコは、選手として活躍しまた監督としても数シーズン在籍した、生涯を通じてのクラブである。
しかし、ヘスス・ヒルとの関係は、かならずしも穏やかというわけではなかった。
ところがこの数ヶ月間、両者は徐々に歩み寄りの姿勢を見せはじめ、ヒル会長の皮肉屋ぶりもすっかり陰を潜めたという。
そして遂にアラゴネスはアトレティコが2部残留でも指揮をとり、1部昇格をめざすことを約束する。

2000-2001シーズン終盤、チームは1部昇格に向け追い上げ勝ち点を上げていったが得失点で昇格を逃すことになった。

Adiòs, Jesùs

1部昇格を目指す2001-2002シーズンのはじめ、チームを退団したフランシスコ・ナルバーエス“”との仲は上手くいっていないとコメントを残した。
「私にとっては実に悲しいテーマだ。私とキコは、決して上手くいったことがない、だからといって彼の不幸を望むようなこともないが。私達の間には特別な“フィーリング”ってものがなかったが、それを修復するべきだったとも思わない。この件については触れないのが一番いい。なぜなら彼はアトレティコの顔だったから」とヒルは率直に語った。
またヒルは、ルイス・アラゴネス監督に賛辞を贈った。
「名前ばっかりの怠け者を、働き者に変身させている。この監督を以ってすれば、俺達は1部に復帰できる」 「アラゴネスを納得させるのに多くの言葉は必要なかった。溢れるばかりの成功を収めてきた彼に、バレンシアは6億ペセタをオファーしたが、彼はそれよりかなり少ない額で私達のところへやってきた。約束を実行したんだ。いまどきのプロフェッショナルでこれをやれる奴は少ないよ」とヒルは絶賛。
また、昨シーズン末に“アトレティコ戦線”が起こした騒ぎについても触れ、「アトレティコの幸福のためではなく、クラブの全権を乗っ取ろうとする輩がいる」のがコトの発端だと言う。ヘスス・ヒルに言わせれば、この少数派は「数人の健全な青少年のバックアップでクラブに介入を図った、反体制的集団。アトレティコ戦線のうちの7,000人が、この事態を支持している」
また、チームの遠征時に、彼らグループの旅費や最も安い観戦チケット、またオフィスを提供するなど、彼らをひき立てもしてきたが、「根元から断ち切るべきだった。こんなくずのような連中とは一切付き合いたくない。こいつらがこんなことをしたって何にもならないってことを、他の連中も気付くべきだ」
そのアトレティコの将来については、サッカー界の頂点を狙うとのこと。
「チャンピオンズリーグを狙うのでなければ、俺はアトレティコにいないだろう。アトレティコはこれ以上2部リーグになんぞいるべきではない。アラゴネス監督となら、復帰も可能だろうと私は思う」と、ヘスス・ヒルは、地元テレビ局テレマドリーのインタビューの中で語っている。

4月にヘスス・ヒルは、スペイン高等裁判所の判決を受け刑期をつとめることとなった。
ヒルは保釈金の支払いを申し出たものの、判事が保留としたためだ。
ヒルは自治体から得たクラブの運営資金を3,000万ユーロ以上、書類を偽造して自分の蓄えにまわしていた容疑で裁判が続いている。
判事は保釈することで、関係書類を破棄する可能性があることを理由にあげ、証拠を隠滅することがないよう拘束することを決定した。
また、この前の週はアトレティコ・デ・マドリーが上場した際に、様々な疑惑があったことから財産を差し押さえられているが、それぞれは別の訴訟となる。
個人資産の凍結は、1億6,500万ドル以上といわれており、そのうち、ヒルの息子であるミゲル・アンヘル・ヒルとエンリケ・セレソ副会長の3名で占める、クラブの94.5%の持ち株が含まれている。
起訴状によると、ヒル氏自身は有罪で17年、・アンヘル・ヒルとエンリケ・セレソに10年の刑期を求めている。
数日後には保釈金を支払って保釈されているが「15日以内に記者会見を開き、アトレティコを去るという決断を発表します。クラブを守るためにそうするのです」とコメントした。
しかし、翻意し1部昇格が決定したチームの大型補強に動く。

2003年2月、スペインの全国管区裁判所は公金横領、書類偽造などの容疑で告発されていたヘスス・ヒルに対し禁固3年半および保有するクラブ株式の没収という判決を言い渡した。
検察当局はヒル会長に禁固17年半を求刑していた。

2003年4月26日、クラブ設立100周年の記念すべき試合であるオサスナ戦で0-1で敗れ、選手達を激しく批判した。
「私は世間でいわゆるプロと言われる選手達が見せた、試合に対する態度に怒りを覚えている」と始めたヒルは、「すぐに彼らは彼らの言い分を口にするだろう。しかし今この瞬間、私は私の言いたいことを言う。なぜならそう感じているからだ」と激しく続けた。
さらに「クラブのカラーを守ろうとする選手達もいるが、そうでない選手達もいる。まったく恥じるべきことだ。これは今季で最もひどい試合と言える」と、まくし立て「オサスナはうちに比べたら巨大クラブのようであった。私は言いたい。生きるに値しない選手達もいる」と、怒りが収まらなかった。
その後も怒りが収まらずヒルと選手の間での言い合いが続く。
ヒルは記念すべき試合となった試合で完敗したチームの出来に不満を見せ、選手達の中には生きる価値のないものがいると怒りをあらわにした。
ヒルの発言に対し、ミランからレンタル移籍中のホセ・マリが不満を見せて反論。「どれだけ悪い内容だったか、選手達はすでに理解している。事がうまくいかないときに選手達を非難するの簡単だ」と述べたホセ・マリは、「ヒルはこれまでに多くのミスを犯してきた。彼はチームと一体感を持つべきだ。うちは勝つときはチャンピオンズリーグで戦えるようなチームだが、負けるときは本当にひどい」と続けた。
このホセ・マリの発言に対してヒル会長がさらなる反論を見せ、このままマドリーに残る事を希望していたホセ・マリだったが、レンタル移籍を完全移籍にこぎつけるのは絶望的となった。
「みな最後にはそれぞれに値するべきものを受ける。そしてホセ・マリは来シーズンはここには残らないだろう」と、放出宣言をしたヒルは、「生きるうえでは責任感を負わなくてはならない。プロのあるべき姿を知らなくてはならないのだ。私が日曜日に語ったことは、その瞬間に熱くなって口に出したものではないのだ」と話した。

この3ヶ月後、ヒルが辞意を表明し、エンリケ・セレソが新会長に。
辞任前、ラジオ局のインタビューでヒルは「(1987年の就任以来)私はいつも批判にさらされてきた。もう70歳だし、これ以上耐えられない」とコメント。
また、自身の退任によりクラブに資金を提供してくれる人物が現れやすくなることも今回の決断を下した理由として挙げている。

2004年5月10日に脳の塞栓症で倒れ緊急入院となったヒルはそのまま容態が戻る事無く、入院先のクリニカ・セントロ病院で14日、夕方6時頃愛するアトレティコのシーズン終了を見届ける事無くこの世を去った。
現会長のエンリケ・セレソは「彼には何が起こっているのか解っていなかった。常にうわ言のように『少し休ませてくれ』と呟いていた。私個人としては20年来の友人を失い、全てのアトレティコファンには父親を失ったかの様な深い悲しみに包まれている。彼のような人物を忘れる事は無いだろう。今はただ冥福を祈る」とヒルを悼んだ。

ヒルは遺言として、アトレティコのチームフラッグとともに埋葬して欲しいとの言葉を残している。
享年71歳

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