“英雄”シメオネのアトレティコでの功績を振り返る――1995-96シーズン

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 長かったシーズンもいよいよ佳境を迎え、欧州サッカーシーンは、熱を帯びてきている。

 なかでも、熾烈を極めているのがリーガ・エスパニョーラだ。バルセロナ(1位)、アトレティコ・マドリー(2位)、レアル・マドリー(3位)が勝点差1(36節終了時点)のなかで三つ巴の争いを繰り広げ、タイトルレースがより激しさを増している。

 バルセロナ、マドリーの2強の間に割って入り、優勝戦線を加熱させているアトレティコの原動力となっているのが、指揮官のディエゴ・シメオネのマネジメント力ということは言うまでもない。

 熱意溢れる指揮で、クラブを高みへと導いているアルゼンチン生まれの熱血漢とアトレティコの関わりは深く、実に興味深い。その両者の歴史を回顧していく――。

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 1987年にアルゼンチンの古豪ヴェレス・サルスフィエルドでデビューしたシメオネは、90年にイタリアのピサへ移籍し、ヨーロッパへの挑戦を開始した。

 しかし、チームは加入1年目でセリエBに降格。そのこともあって経営不振に陥っていたピサはシメオネの売却を決断する。これにより彼は、スペインのセビージャへプレーの場を移すこととなった。

 当時のセビージャは、アルゼンチン人の名将カルロス・ビラルドが指揮官を務め、FWにはあのディエゴ・マラドーナとクロアチア代表FWのダボール・シュケルが在籍。名立たるスターが揃い、世界から注目を集めるチームだった。

 そのなかで中盤に就いたシメオネの、粘り強く、ファウルすら厭わない狡猾なプレースタイルは、日々磨かれていく。

 94年1月16日のバルサ戦では、当時、バルサのエースだったロマーリオのマークに付き、稀代のストライカーを封殺。そのマークの厳しさは、不満を溜めたロマーリオに殴られるという事件が起きるほどだった。

 その後、93-94シーズンにはセビージャの新指揮官となったルイス・アラゴネスの下で戦術眼を学んだ。そしてシーズン後にはアルゼンチン代表として、自身初のワールドカップにも出場した。

 88年には代表選手としてのキャリアをスタートさせていたシメオネは、すでに91、93年のコパ・アメリカ連覇、92年のコンフェデレーションズ・カップ優勝などの実績を残しており、94年夏のアメリカでも当然、レギュラーとして戦った。

 そしてこの大会の後、アトレティコとの邂逅の時が訪れる。長く続く両者の関係がここから始まった。シメオネ、24歳の時である。

 とはいえ、その1年目は最悪だった。彼自身は怪我が癒えず、公式戦の出場はわずか3試合。そして、チームも残留争いに巻き込まれるなど、不本意なシーズンを送ったのである。

 しかし、そんなシメオネ、アトレティコにとって、転機は意外なほど早く訪れた。

 95-96シーズン。シメオネがして加入して3シーズン目のアトレティコには、1987年に就任してから独裁的な権力を振るい続けたヘスス・ヒル会長の政権下では21人目の監督となる、ラドミール・アンティッチが招聘された。

 このセルビア人指揮官が採用したのは、最終ラインを高く設定し、ハイプレッシャーでボールを奪いにかかるアグレッシブな戦術。これにより、前シーズン16位に終わったチームは大いに活性化した。

 そして、そんなアンティッチの下でシメオネは、まさに水を得た魚のごとく抜群の働きを見せ、試合のたびに観客を唸らせる。もちろん、冷静さと激しさを併せ持った彼は、指揮官にも重宝された。

 その影響力は絶大だった。攻撃では、チームのアイドル的存在だったキコとブルガリア代表FWのリュボスラフ・ペネフの2トップを的確にサポート。シメオネ自身も果敢な攻め上がりを見せ、リーガで12ゴールを記録した。

 本来の持ち場である中盤では、ホセ・ルイス・カミネロ、、ファン・ビスカイーノと息の合った巧みなコンビプレーを披露し、守備でも抜群の存在感を発揮したシメオネは、チームに欠かすことのできない中心選手となっていた。

 開幕13戦負けなし、その後も調子を持続したアトレティコは、ホーム、ビセンテ・カルデロンでの最終節・アルバセーテ戦で2-0と完勝し、ついに19年ぶりのリーガ優勝! さらにバルサとの激闘の末に国王杯も制し、“ドブレッテ(2冠)”を達成した。

 シメオネは、前述のアルバセーテ戦で先制ゴールを挙げてチームをさらに勢い付けたが、この試合だけでなく、シーズンを通してチームの牽引車となり、また優勝の立役者だった。

 アトレティコの英雄となり、ファンからの愛情を一身に受けたシメオネだが、さらに価値を上げた彼を他のビッグクラブが放っておくはずはなく、97-98シーズンにイタリアのインテルへ引き抜かれる。両者は、しばしの別れを強いられることとなった。

 この後、アトレティコは徐々に成績が悪化していき、99-2000シーズンにはついに2部落ちを経験。低迷期を迎えたのは、ヒル会長の独断専行のクラブ経営によるところが大きいが、シメオネが抜けたことにより、チームが弱体化していったのも確かだった。

 退団した後も、改めてその存在感の大きさを示したシメオネ。そんな彼が指導者として再びアトレティコに戻って来たのは05-06シーズンのことである。ここから、両者の時計は再び動き始め、栄光に満ちた歴史が刻まれていく――。

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