ロヒブランコの人々の幸せ
「あなたが命を絶つなら、あなたとともに私も死ぬ。あなたが死ぬなら、あなたとともに私も命を絶つ。なくならない愛は人を殺すのだから。人を殺す愛はなくならないのだから…」
スペイン人歌手ホアキン・サビナは、私たちが書こうとすることを意識せずに記していた。その歌詞は結婚式で響くものと推測され、アトレティコが考慮されたわけではない。けれども、そのテーマは私たちをすくっている。この伝説なるアトレティコは、彼らが命を絶つなら私たちも死に、彼らが死ぬなら私たちが命を絶つに値するのである。少し硬く、大袈裟な表現ではあるだろう。しかし、こんなことを書く人々は、バルサ戦終了と同時に限りなく天空に近づいているのだ。もちろん、リーガのデシマ(10度目の優勝)を達成できていなくとも、そのように尽くす価値がある。
客観性を望むのなら、この文章を読まなければいい。ジャーナリズムを求めるとしても目を通す必要はない。幸福と不合理を欲するような人々こそ、このような書き物に導かれるのだ。さあ、涙をこぼしながら綴ろう。アトレティコがリーガを勝ち取れていなかったとしても、同様に涙を流していたことは明らかである。そのことを認めるのは悪くもあるが、認めなければ最悪だ。だからこそ、今から容赦を請わなければならない。鼻をすすり、キーボードに鼻水がつくことを。それこそが人生。それこそがアトレティコ。アトレティコこそ人生なのである。
ディエゴ・シメオネのチームはカンペオンであり、その正当性や価値など、そのほかの一切合切は棚に上げておく。そのような点においても、「言葉は美しいものだが、重要なのは何を成し遂げたのかという事実」と語るエル・チョロ(シメオネの愛称)は正しい。事実はリーガ制覇。事実は勝ち点90獲得。事実は選手たち、チームの器を推し量るカンプ・ノウを舞台にしてのタイトル奪取だ。
リーガを懸けた一戦でアトレティコは壊れた。最初にコスタ、次にアルダと、称賛されるべきチームは壊れた。だが昨日で60試合目、リスボンで61試合目である。各試合を決勝と見立てて戦ってきた選手たちは、相当に痛めつけられていた。しかしながら、それでも彼らは常に全力を出し尽くすのだ。そのほかの勝利の術を知らないゆえに。アトレティコはぱちんこを手に持って戦争へと向かい、勝利を奪い取る。ほかにも大量に存在する兵器の有用性について、今一度熟考しなければならないだろう。
タイトル獲得における最後の捺印を押すために、空高く舞い上がったのはウルグアイ人の族長、ディエゴ・ゴディン。その得点方法に、ヘディング以外の選択肢はなかった。アトレティコは最後の最後まで、自らに忠実なのだから。同点弾が決まる前には、アレクシスが枠の隅にシュートを沈めている。その得点は目を疑うようなものだったが、ジエゴが同じ舞台のチャンピオンズの試合で決めたそれも、またあり得なかった。もう一度、フトボルは行って、帰ってきたのである。
失点によって凝り固まったチームは、ハーフタイムまで何とか凌ぎ切り、その後に決意を固めた。負傷者が出たという言い訳を見つけた? ノー。1000回ノーだ。プレーに臨むことを、勝利をつかむことを、征服することを目指したのだ。このアトレティコは永遠であり、決して忘れられはしないだろう。カンプ・ノウですら、自チームがシーズン最後の失敗を犯した直後に、驚嘆の喝采を浴びせていた。
今日、太陽は確実に昇ったはず。フトボルの一試合より重要なことが、確実に起こったはず。絶対に、確実である。だがしかし、気の良いロヒブランコ(赤白)の人々のFelicidad(幸せ、幸運)は、どのようなことがあっても揺らぐことはない。ネプトゥーノ(アトレティコの優勝祝賀会場)へ、ああ、ネプトゥーノへ。これを書いている人間個人は、涙腺が崩壊するときにコンチャ、ヒメナ、イリアと言葉を交わしていたい。
良くも悪くも、人生は続く。試合から試合へ。決勝から決勝へ。
Felicidad、何て素敵な名前の持ち主なんだ、君は!
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